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浅田真央 復帰戦 トリプルアクセル健在で笑顔のV! [スポーツ]

フィギュアスケートの浅田真央(中京大)が3日、日本、北米、欧州の3地域対抗線ジャパンオープン(埼玉スーパーアリーナ)に出場、1年半ぶりに銀盤の上に姿を現した。

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1年半のブランクを感じさせる事なくトリプルアクセルを成功させ141.70点で女子6選手でトップの成績を残し、チームとしても日本が優勝を果たした。

1年半という時間の間、悩み考えて過ごしたのか、それとも心身ともにリラックスして過ごせたのかは定かではないが精神力、表現力が更に増して成長したように見えた。 

5歳の時に姉の舞とスケートを始めグングン頭角ををあらわし、2000~2001年にグランプリ東海クラブの名コーチ山田満智子に師事、小学校6年で出場した全日本選手権で3回転×3回のジャンプを跳び「天才少女」とよばれた。

ちなみに山田コーチとは名古屋スポーツセンターをホームリンクとするグランプリ東海クラブの名コーチで教え子に伊藤みどり、恩田美栄、中野友加里、現在では村上佳菜子、宇野昌磨等多くの選手を表舞台に送り出している。

 ジュニア時代から全日本選手権、世界ジュニア、グランプリシリーズ等で優勝を果たしている真央ちゃんですが、オリンピックでは2010年バンクーバーオリンピックの銀メダルが最高でまだ一番高い台には登っていない。

注目されるのが次の2018年平昌オリンピックだ、当然そこに照準をを合わせてくるのではないかと思われる、今回の復帰戦はそれに合わせた地ならしとしてのスタートではないでしょうか。

幸先のいい笑顔のスタートができた真央ちゃんに若い選手たちを引っ張りスケート大国日本を盛り上げていって欲しいですね。

ここで余談ですが、なぜ名古屋はスケートが盛んで選手もたくさん育っているのかですが、それは小塚崇彦選手のお祖父さんである小塚光彦氏がいまの大須スケートリンクの礎をを築いたのです、赴任先の満洲でフィギュアスケートを学び1940年開催予定であった札幌オリンピックを目指していましたが、戦争で中止となり夢叶わず命からがら生まれ故郷の名古屋に帰りました、そして子孫にオリンピックの夢を託すためにスケート愛好家と共にフィギュアスケートを普及させるべく愛知県スケート連盟を創立し地元企業などの協力を得て1953年愛知県で初めての大須にスケートリンクの完成に尽力しました。

その時の教え子が先の山田コーチや安藤美姫のコーチでもあった門奈コーチであったため現在も光彦さんの意志が受け継がれているためフィギュアスケートが盛んで、数多くの選手が育っているのです。

今後の更なる活躍を期待しましょう。



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タグ:浅田真央
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